生きる意味

はてなのアカウントを作って最初にトップページを見たとき、下記のような質問がランキングの上位にあった。

「人生の意味を見出せなくて辛いです。また、コミュニケーション能力もなく、毎日無駄な生活を送っています。努力すれば報われるとかそういう概念に裏切られて生きてきました。どうすればいいと思いますか?」

 

恐らく多くの人がそうであるように、私も同様に「人生の意味」なるものを考えた時期があった。

生きる意味を考えたとき、私は「笑って死ぬために、生きよう」と、至極楽観的な結論に行きついた。
そして、それに不可欠な要素のひとつが「努力」、悔いのない行動であると思う。

目の前の事をその時の努力で達成できなかったとしても、なぜかその当時「努力」した事は後の人生で何かとプラスに働いてくれたりする。
これは経験則で、そう思う。

 

また、最近頻繁に使われる狭義の「コミュニケーション能力の低さ」というのは、「常識(価値観)の違いによる齟齬」でしかない事も多い。

「コミュニケーション能力」で悩むような人間が、いたずらに他人に害を与えようとする人間性でないのは容易に想像がつくし、できれば他人と折り合いをつけて生きたい「どちらかというと気を遣いがちな人間」だと思う。それゆえに陥る悩みだと思う。

常識の齟齬を解消するには「自分の常識と噛み合う人達を見つけ、その中でのみ生きていく」か「より多くの常識を身に着ける」しか無い。

処世術としては「その場の常識に合わせる」というのが基本で、
例えば学生ならクラス、学校、部活、
社会人なら職場、社会一般、ビジネス
それぞれでの常識が「その場の常識」という事になる。

あと、かなりやっかいなのが「自分を守りすぎる」こと。

私も覚えがあるが、自分のプライドや心が傷付かないよう過度に自分を守りすぎると、他人との接触に壁や歪みが生じる。

自分を守りすぎるのは恐らく、自分の中にすがるべき強い何かが無いからだ。
誰に何を言われても、何か多少の失敗をしても、心の中に「でも自分にはこれがある」と寄って立つものがあれば、だいたいの失敗はそこまで恐くない。

「自分は頭が良い」「顔が良い」「スタイル、体格が良い」「金持ちだ」「家族、恋人、友人に愛されてる」

人は色々なものにすがるが、多くは先天的だったり他人の意思や行動に左右されるものだ。

だが「自分はこれだけの事をやってきた」というのも、すがるべきものに成り得る。

「努力」というのは、先天性や他人の意思は関係なく、個人の、自分の意思で手に入れられる唯一の心の支えであり、満足して死ぬために不可欠なものだと、そう思う。

 

あと、現代の日本において「生命活動を維持する」という意味での「生きる」には、あまり困難が生じないというのが、遠因にして根本にあるように思う。